2022年度日本数学会賞秋季賞

2022年度日本数学会賞秋季賞

緒方芳子(東京大学大学院数理科学研究科)
量子スピン系の研究

緒方芳子氏の研究テーマは作用素環論を用いた量子スピン系の研究である.量子スピン系とは,格子 𝐙 の各点上に 𝑑×𝑑 複素成分の行列環 𝑀(ℂ) があるという状況で,これらの無限テンソル積を取ったもののことであり,量子統計力学の数学的研究において自然に現れるものである.特に 𝜈=1 の場合については量子スピン鎖と呼ばれることも多い.

緒方氏は初期の頃からずっとこの設定での一連の研究を行っており,それらに対しInternational Association for Mathematical Physicsによる2021年のHenri Poincaré Prizeを受賞し,また2022年の国際数学者会議 (ICM) の招待講演者にも選ばれているが,今回の秋季賞では特にその中で,最近精力的に研究を続けている,物質のトポロジカル相の分類定理が授賞の対象となった.このテーマに限定しても緒方氏には重要な論文がたくさんあるのだが,以下特に有名なものについて述べる.

物質のトポロジカル相の研究は2016年のノーベル物理学賞を受賞するなど物理学においても大変ホットな話題であり,多くの物理学者たちが研究しているが,数学的にも大変興味深い問題の宝庫であり,数学者に対しても重要な研究テーマを投げかけている.数学的な立場からは,その研究対象はgapped Hamiltonianと呼ばれる自己共役作用素である.Gappedとは,スペクトルの最小値が,その次に小さいスペクトルの値と常にある程度離れているということを意味する条件で,物理的な観点からの要請である.そのような自己共役作用素のgappedという条件を保ったままでの連続変形で移り合えるという同値関係での同値類が,物質のトポロジカル相の数学的な定義である.また,(しばしば有限の) 群の作用を考え,群作用で不変なgapped Hamiltonianが,群作用で不変なまま連続変形で移り合えるかどうかという問題も自然に現れる重要なもので,多くの研究者の関心を集めている.この意味での同値関係の不変量を調べることが数学的な設定での重要な研究テーマである.

特に,物理的に自明と考えられる同値類のgapped Hamiltonianについて,有限群 𝐺 の作用を付けた場合 (symmetry protected topological phase ―SPT相と呼ばれる) の同値類を記述する自然な不変量は何か,という問題が多くの研究者の興味を集めていた.この問題についての物理的な理由に基づく予想として,コホモロジー群 𝐻¹(𝐺,𝑈(1)) に値を持つ不変量があるだろうというものがあったのだが,格子の次元 𝜈 が1, 2の場合に完全な解決を与えたことが緒方氏の最近の主要な業績である.このコホモロジー群の元はある種の指数と思えるものである.なお格子の次元が高いときには,この予想は正しくないと現在では考えられており,新しい予想も提案されている.

以上のような緒方芳子氏の業績は,物理学的に興味深い問題を,高度な数学的技法を用いて厳密な形で解決するという,数理物理学の王道を行く成果として国際的にも高く評価されており,2022年度日本数学会賞秋季賞にふさわしい優れた業績である.

日本数学会
理事長 清水 扇丈