2019年度日本数学会賞春季賞

2019年度日本数学会賞春季賞

前川泰則(京都大学大学院理学研究科)
流体力学の数学解析の新展開

流体の運動は速度ベクトル場と圧力の挙動で支配され, それらが不規則に変動する流れを乱流といい, 対比して規則性の強い流れを層流という. 乱流は時間的にも空間的にも不規則に変動する流れで大小様々な渦から構成されていると考えられる. このような層流から乱流にいたるまでの流体の様々な運動を支配する基礎方程式がNavier--Stokes方程式であり, その可解性はClay研究所ミレニアム問題の1つである. 前川泰則氏は非線形偏微分方程式, とりわけNavier--Stokes方程式の研究で世界的に優れた成果を挙げてきた.

Reynolds数は流体力学において基本的な無次元量であり, 粘性係数と反比例の関係にある. Reynolds数が低い場合には粘性の減衰効果が強く,流れは層流に保たれるが, 高い場合には流れは乱流へと移行する. 高Reynolds数の流体の解析は, 数学的にはNavier--Stokes方程式の非粘性極限の解の漸近挙動の問題と定式化される. 非粘性極限では, 最高階微分の粘性項を消滅させることになるため, 微分損失を伴う強い特異性の生じ得る特異極限問題であり, 数学的に厳密な理論を構築することは一般に大きな困難を伴う. 少なくとも形式的には, Navier--Stokes方程式から粘性項を取り除いたEuler 方程式によって非粘性極限が記述されることになる. そして, 流れの領域が非自明な境界を持つ場合には, 速度場が不連続的に振舞う境界付近の領域(境界層)の形成を制御しなければならない. L. Prandtlによって, 境界近傍で粘性の影響が残る境界層方程式であるPrandtl方程式が導出された. この境界層は高周波数領域において強い不安定性を持つことが示唆されており, そのため, 十分広いクラスの初期値に対して粘性流体の非粘性極限が数学的にどのように記述されるかという問題は, 2次元半平面のような単純化された状況下においても大きな未解決問題となっていた. 前川氏は渦度方程式を用いて2次元半平面における非粘性極限問題を考察し, 初期時刻において渦度の台が境界から十分離れて分布している場合には, 非粘性極限におけるPrandtl 境界層展開, 即ち, Navier--Stokes方程式の解が, Euler方程式の解とPrandtl方程式の解および剰余項の和で表されることが数学的に正当化されることを証明した. 証明の核となるアイデアは, 境界上で生成される粘性流の渦度場と, 境界から離れた場所に分布しEuler 流で輸送される渦度場の相互作用を見積もることであり, 境界条件も含めた渦度方程式の解析の有効性が力量ある解析計算によって明らかにされている. この漸近展開を導出する形式的議論においては解の滑らかさが仮定されており, 厳密に正当化するためには少なくとも付与データに対する境界付近での解析的な正則性が要求される. 凸性を有する剪断流型の境界層周りではGevrey 指数3/2 クラスの初期値に対してPrandtl 境界層展開が正当化されることをGérard-Varet, Masmoudi両氏との共同研究によって証明した. これはPrandtl 境界層展開を解析的な滑らかさよりも真に低い正則性のもとで示した最初の結果であり, 前川氏による境界層理論が, 数学解析の分野において豊富な研究テーマを内在していることを示している.

このような流体力学に固有な長年の懸案であった境界近傍の運動方程式の数学解析に加えて, 前川氏は, 最近古典的な外部問題においても優れた研究成果を挙げている. 実際1960年代にFinn, Smithにより船を典型的な障害物としてそれを通り過ぎた流れに対し, 物理的に適切なNavier--Stokes方程式の解の存在と一意性が証明されたが, 2次元流の解の安定性については長い間未解決であった. 特に障害物が初期の静止状態から次第に速度を加速し, 一定の時間経過後に定速度で運動する場合の周りの流れの安定性問題は“Starting Problem”と呼ばれ, その数学解析は, Navier--Stokes方程式の外部非定常問題では難問として知られている. 前川氏は, 障害物の後方に発生する流れの遅い領域(伴流領域)の影響を考慮した非等方的な重みを有する関数空間を導入し, 任意の初期擾乱に対するこの物理的に適切な解の漸近安定性を証明している.

このような数理流体力学における基本的な問題を解決したことに加え, 乱流中の微細渦菅構造のモデルであるBurgers渦の数学解析や, 2次元の回転する物体周りの定常流の一意存在と漸近形の導出など, 氏の優れた研究業績は枚挙にいとまがない. 実際, それらはすべて, 純粋数学における近代解析の発展に留まらず, その卓越した解析的手法を背景に応用数学における方法論の基礎付けに多大な貢献をもたらしている. このように, 古典的な数理物理における問題を近代解析の立場から捉え, それに新しい解析的手法を創造して問題を解く前川氏の研究成果は世界的に高く評価されている.

以上のように, 深い洞察力と豊富なアイデア, 力量ある解析計算によって得られた前川泰則氏の研究は, 日本数学会賞春季賞に誠に相応しい.

日本数学会
理事長 小薗 英雄