日本数学会のあゆみ

高木貞治50年祭記念事業

「回想」(高木貞治)--「数学」9巻2号より

回想

高木 貞治

私が東大へ入学したのは, 明治27年 (1894) であつた. そのころの数学の学会は, 物理と一緒になつており, '東京数学物理学会' とよばれていた.後に長岡半太郎さんの発議で, この名称は '日本数学物理学会 ' と改められたが, どちらも私たちは'数物 'という略称でよびならわしていた. 長岡さんの提案は, 東京の数物, 京都の数物などといつたものができない方がよかろう, というのであつたようだ.

私は明治30年に大学を卒業し, 数物の会員となつたが, 学生時代から数物の例会や年会には '傍聴者 ' として出席したものである. 例会は8月と 9月を除き, 毎月一回, 第何回目かの土曜日に大学で行われ2 菊池大麓, 藤澤利喜太郎, 田中館愛橘の諸先生や, 中村清二さんなど当時一高の先生をしておられた若い人たちなどが出席された. 私たち傍聴者も入れて20人ばかりで, 今と比較すればさびしいものであつた. 年会はやや盛大で毎年 5月に東京で開かれる例であつたが, その後地方でも行われるようになり, 同時に時期も4月になつた.

私は明治31年にヨーロッパに行き34年に日本へ帰つたが, その翌年ごろから欧文の論文を載せる数物の記事が出るようになつた. それより少し前の時期の学会では西洋の数学論文の英訳や, ' 藤澤教授セミナリー演習録 'というものを刊行したりした.

英訳された論文のうち菊池先生が Gauss の超幾何函数の論文をラテン語から訳されたものは,西洋でも知られていた. それと藤澤先生や長岡さんが独, 仏語から英訳された Gauss, Dirichlet, Kummer の級数論に関する論文をまとめて Memoirs on Infinite Series として学会から出版した.

セミナリ 一というものを日本で初められたのは澤沢先生であるが, その報告が学会から出版されたのである. そのうちの1冊では, 林鶴一君が e π の超越性の証明を, 吉江琢児君が等角写像の理論を, 私が Abel 方程式の理論を紹介した.

多分文部大臣をしておられた菊池先生の推輓によるものと思うが, 明治40年関孝和の200回忌に贈位のことがあり, 牛込の浄輪寺で奉告祭が行われた. 関孝和といえば, それよりもずつと前, 関奨学資金として300円が学会に寄附されてあり,学会ではその利子を賞金として懸賞論文を募集した. その第一回には澤田吾一氏が応募し受賞された. 200回忌のときには, 関孝和記念の通俗講演会が開かれ, 和算家の川北朝鄰氏, 和算の理解者であつた狩野亨吉氏などが講演され, 盛会であつた. 学会主催の通俗講演会はその後何回か開かれ,あるときは, '赤切符, 青切符 'を作つて, 入場料それぞれ50銭, 1円とした. 会場は法科の第何番教室であつたか, かなり広い室がいつも満員となつた. しかし, このような講演会は, 事務があまり煩雑であつたので長続きしなかつた.

会の事務を専門にする人をおく ことができるようになつたのは, ずつと後のことで, 昔はわれわれが自身でかわるがわる会務を見たのである. 物理の人と数学の人が一緒に委員になつたが, 会計の役はよく数学の方へ廻された. 私も何度か会計の帖簿づけの役を勤めさせられたことがある. 委員長の任期は1年とし, 重任を許さないという規則を作つたが, 廻り持ちで, 私も何回か勤めねばならなかつた.

数学の欧文論文を載せる雑誌としては, 数物記事のほか大学紀要が以前からあつたが, 1910年代に東北数学雑誌ができ, 1920年代には学士院記事にも短い論文が載るようになり, 学研の日本数学輯報もできて, この方には比較的長い論文が載つた. 数物記事には, 数学と物理と両方の論文が載つたが, 数学と物理との相互の関係が必ずしも緊密というのではなく, 数物に数学部と物理部とを設けてはどうか, あるいは二つの学会にわかれてはどうか, という話も何回か出たことがある. 終戦後にそれが実現して, 日本数学会ができたわけである.

80年といえば, 学会としても相当長い歴史をもつものといえよう. しかし年月は知らぬ間に経つものであるから, 学会はやがて100年, 200年の歴史をもつようになるであろう. 日本数学会はどこまでも発展を続けることを希望する. (談)