日本数学会の出版物
巻 頭 言
7巻1号
2000年度に国際交流委員をおおせつかり,2001年度には委員長を引き受けることになりましたが, この委員会はその存在意義が認められず,解散を控えているという話が内外からあり,私の役割をあらためて認識しました.
そこで,委員会の成り立ちやその後の活動状況を,資料を読み,元委員の方々にいろいろお聞きして調べた結果,次のことがわかりました.
設立の動機:科研費などの枠にとらわれず自由に国際交流に使える特別予算を,賛助金,寄付金をベースに設け, 様々な企画を立案して理事会に提案し,その承認をへて,実行に移す.羽鳥浅子氏からの中国数学者招聘を目的とする 毎年50万円の寄付金については,これを羽鳥プロジェクトとして運営する.
委員会の設立は1983 年ですが,後に ICM 90 を控え,各界からの寄付賛助金も豊富で, 委員会活動は大変活発なものでした.招聘,派遣,アジア地域での研究集会開催援助,その他の活動が常時行われていました.
一転,近年は寄付賛助金の激減を大きな要因として,毎年300万円程度の収入と,同額の支出を,ほぼ確定している援助, MSJ-IRI 援助,CDE拠出金,JAMI 援助,Oberwolfach 会費支払い,ACM 援助,来日数学者講演援助にあてると, 他の活動をする余裕はほとんどなく,委員会としても活動の目標を見失いがちで, ルーティーンかつ形式的作業で終わるというのが実際の所でした.
2001年3月の理事会で,当委員会自身がこのことを指摘し,運営のスリム化を目指す理事会の方針もあり, 楠岡理事長から,2001年度は経過措置として上記拠出金については理事会扱いにするというご提案があり, 委員会もこれに同意いたしました.
今回,解散が決まりましたが,長年にわたり羽鳥氏の篤志で行われている 寄付総額500万円ほどのプロジェクトは継続され,また今後の国際交流への対応は国際交流担当理事を中心に行なわれることになります. 2000万円余の国際交流特別会計を維持し,設立時の理念を持続していくことは,今まで国際交流委員会で献身的に働かれた, 藤田(宏),岩堀,故村上,落合,森本(光),上野(健),小谷(真),西川,石井(仁)諸氏ほか多くの委員の願いであると思います.
科研費の使用法の多様化など時代の変化もあり,個人レベルの国際交流が活性化された状況で, 今後日本数学会として国際交流をどのように行なっていけば数学の発展に寄与できるか,というのは大変難しい問題ですが, 設立当時の理念が失われることのないよう願いつつ,任期の6月いっぱい,残務の処理に専念していくつもりでおります.
1989 年当時の委員長,落合卓四郎氏から「システムはスクラップ・ビルドが必要であり, 運営は不断に見直しを要すると思っています.このたびの件もこの一環かと思います」との一言をいただいたことに感謝しています.
(国際交流委員会委員長 宮岡礼子)
7巻2号
私が日本数学会の会員であることを心から誇りに思ったのは数年前,飛び級や飛び入学が政治的な問題になり,多くの数学者が, 反対の論陣を張ったときでした.人間の本質的なあり方や成長の過程,そして創造力についての本質的な理解をもとに情理を尽した 主張だったからです.
その他にも,学校教育における文部科学省の方針などについて,長期的な提言をしていることも非常に重要だと思っています. 大江健三郎氏の表現を借りれば,日本の政治の動きについて,数学会はカナリアのような役割を果たしているような気がします. 贔屓の引き倒しになるかも知れませんが,社会全般,特に政治を良くするためには,こうした数学者の考え方がもっと広まる 必要があり,政治的力を持つべきだと主張したい気持です.そのためには,多くの数学者の考え方を分り易くまとめ,マスコミを 通して日本中に届けなくてはなりません.しかし,具体的にはどうすれば良いのか----答になるかどうかは別として,私なりの アイデアを硬軟一つずつ紹介させて下さい.
①最初は「軟」つまり,ユーモアによって多くの人に関心を持って貰おうというアイデアです.
(A)数学DI---DIと言うのは,ディフュージョン・インデックスの略です.一定の母集団に属する人の中で, 景気が良いと感じている人の数から悪いと感じている人の数を引いた結果を指数化した景気についてのDIは,景気の良し悪しを 判断する一つの材料として有名です.これを,例えば「日本の政治家の発言は論理的か」という問に変えて日本数学会を母集団とし, 日本の政治の一つの指標にできないものでしょうか.
(B)数学アカデミー賞---世の中の動きを,数学に関連のある視点で切って評価を行い一年に一度,賞として公表するというアイデア です.賞の具体例としては,たとえば,円周率は3で良いとの託宣を下した文部科学省には「無理賞」とか「有理化賞」あるいは 「法王賞」といった名前の賞を贈ったらどうでしょうか.対象にするのは政治家や官僚,評論家の発言やマスコミ.
②今年小学校に入学した豚児が使っている算数の教科書を見ての問題提起です.まず、教科書について,お母さん方の意見を 要約すると,「一年生の終りにこんな程度で良いの」「幼稚園と全く同じ扱いで子供たちには新鮮味がないのでは」 「イラストや絵のテーマがばらばら」「内容も,どこにポイントがあるのか分らない」「科学の基礎になる本なのに 何故UFOが登場するの」等々,厳しい批判の声が多いようです.この教科書を一見して私には,哲学がどこにあるのか良く分りませんでした.
その理由は,文部科学省の指導要領にあるという言い訳が聞こえてきそうですが,数学会としてもっと強力に影響力を行使すべきでは なかったのでしょうか.厳しい制約の下,少しでも良い教科書をという立場も分りますが,哲学を持った,長期的な展望を持つ指導要領を 作るためには,教科書の執筆には協力しないといったドラスティックな手段まで動員することも必要なのではないでしょうか. そこまで覚悟をしてもなかなか政治は動きません.でも数学者さえ動かなくなった社会には絶望しか残らない,と言ったら 大袈裟に過ぎるでしょうか.
(秋葉忠利 広島市長)
7巻3号
最初から私事になるが,16年前の1986年に国立大学から私立大学へ移った.それは,国立大学で大学院重点化から独立法人化 に到る嵐の始まりの直前であった.既に予兆はあったのであろうが,鈍感な私は何も感じておらず,結果的には敵前逃亡のような形に なってしまった.その後,わが大学で随分忙しいが基本的には静穏な生活を送りつつも,何となく申し訳なく感じていたことも 一面の事実である.この間,外から見ていても,いろいろと紆余曲折があったようで,当事者の方はさぞかしご苦労が多いことで あろうし,研究に油が乗る時期の方々の時間とエネルギーが随分消費されているのではないかと,気になっていたことである.
突然だが,エピソードを一つ.数年前に,アメリカの大学に所属する研究者のセミナーに出席した後,歓迎会への道道の雑談で, 彼は全く初等的なことが出来ない学生(まさか分数の計算ではなかったがほとんどそのレベル)の相手を延々とせねばならない, とぼやいた.あまりに嘆くので,それでは今日の話しのような(第1線的な)研究は,どうして出来るのか,と尋ねてみたら, 「いや,1週間のうちn日は完全に自分のものだから,うちで勉強するんだ」という答が返ってきた.記憶が定かでないが, n≧3であったことは確かである.これに加えて,夏休みの時間もある.とかく時間が一様化してしまう日本に比べ,厳しい中にも 活路がでてくる,いかにもアメリカらしい話しだと思った.
最近,私立大学も含めてのいわゆる改革論議では,教育機関としての大学にスポットライトがあてられ,大学の教育機関としての Education service の姿が如何にあるべきかが論じられることが多いようである.今は教育は自ずと出来る,という時代ではなく, 教育改革のための努力を否定する積もりは全くない.しかし,その一方でひそかに感じている思いがある.言うまでもないことだが, 大学は同時に Research Institute であるのだが,Research Instituteとしての基本は何か,そしてそれを生かし続けるには どうすればいいのか,そういうことが改革論議の中で置き去りにされている恐れはないか,それをひそかに心配している. 研究のための予算,施設,設備の充実には政策的に十分な配慮がなされている,と言われるかも知れないが,それらは一つの 必要条件であろう.いい言葉が見つからないが,Research Instituteを生かす雰囲気というか,いわば命の素のようなものが あるのではなかろうか.伝統という言い方も出きるかも知れないが,むしろ伝統は命の素を生み出す一つの要素で,必ずしも 命の素の必要条件ではないだろう.このような,一見実体が見えない研究の命の素,それを生かし続けるには,何が大切なのか, 何が邪魔になるのか,大学改革の論議の中で,そこを十分に見定め方向を誤らないようにしないと,将来に禍根を残すのでは あるまいか.大学人の自戒はもちろんであるが,大学の外部から論じられる方にも是非考えて頂きたいと思う昨今である.
松江での秋季総合分科会が終ったばかりである.皆勤ではなかったが,それでも幾つかの刺激的な講演を聞くことが出来た. 若い方々から,いや我々は存分にやっているから心配するな,と叱られるならば以って瞑すべし,と思いつつもこの機会に 最近の思いを述べさせて頂いた.
(黒田成俊 学習院大学)
7巻4号
イソクラテスという,古代ギリシャのソフィスト(職業的教師)の一人が,紀元前390年 にアテネで学校を開いた.イソクラテスは,政治弁論術でよく知られた人物であり,彼の学校では,演説草稿の書き方や, アテネで無事に生きていくために必要となる法廷用弁論術を主な科目としていた.というのも,当時のアテネでは, 訴訟に巻きこまれ,敗訴すれば富を失い無一文になるか,最悪の場合は死に追いやられることもあったのである. 訴訟で相手に勝つためには,説得力のある巧みな演説草稿を用意する必要があった.だから,イソクラテスの学校の目的は, 人々に日々「役に立つ」ことを教えることであった.ただ他のソフィストたちと異なる点は,彼らは弁論術を習いたい人々の 所に出向いて個人教授を行うことにより糧を得ていたのだが,イソクラテスは学校に人を集めて講義を行うという方法を 採ったことである.授業料は主に外国人から取り,学生は常時数名であったといわれる.しかし,イソクラテスの学校は, 彼の死と共に閉鎖されることになった.
イソクラテスによる学校開設から4年後,まったく性格の異なる学校が,アテネ近郊に開 かれた.この学校では,生徒から一切授業料は取らず,貧富によらず,志さえあれば誰でも入学ができた.しかし, そこでは日々「役に立つ」ことが教えられることはほとんどなく,むしろ天文学,幾何学の教養の上で,ソフィストから 見れば直接には役立ちそうもない哲学が主に教えられたのである.にも関わらず,学生の数は多かった.その教育理念は, 「個人的な交わりの中で,学ぶ者の魂に真理を書きこむ」ことであった.この理念は成功し,哲学や数学の歴史に名を 残すことになる多くの人材が輩出した.しかも,ローマのユスティニアス帝が紀元後529年に学校を閉鎖するまで, 約900年存続したのである.この学校の名称は,その開設地の名前を取って,アカデメイアという.そして,その創始者は, 言うまでもなく,あの有名なプラトンである.
さて,このイソクラテスとプラトンの話を受けて,現代的観点から何かコメントすべきだろうか.筆者は,その必要を 感じない.何故なら,現在日本で起きている状況をどのように見るべきかを,そのままの形で示唆しているからである.
(砂田利一 東北大学)