日本数学会の出版物
巻 頭 言
5巻1号
大学生の学力,特に数学の力が低下していると言われる.理学部で初年級の数学の講義をし,また数学教室で学部教育,大学院教育に携わっているものとして,学生の学力が低下しているという感は非常に強いと言わざるを得ない. 学生数が増えたのだから平均的に学力が落ちたと感ずるのは当然で, 実際にはそんなことはない,という意見もあるが,学力という意味でトップグループの 学力が落ちていると考えているのは私だけではない.将来,日本の数学研究,教育を担っていくべき人を育てる機関の状況であるだけに,ことは深刻である.
大学生一般について数学の学力がどうであるかについては,私は具体的な証拠もデータも持っていないので,色々な調査をされている方々の言を信ずるしかない. しかし,初等・中等教育における教育課程の「改革」の方向を見れば, 事態が良い方向に向かっていないことは明らかである.余裕を作るという美名の下に結局は教育時間数を減らしている.事実は逆で,時間数を減らすということが先にあり,それに合わせて教育内容を「精選」している.本来なすべきことは,時間数を維持,ないしは増やして,教育内容を精選して,生徒の資質に応ずることができるように内容に幅をもたせるべきである.多様性を言いながら,システムとして一様性を強いるといういつもの方式がここにもある.社会的環境の変化は初等・中等教育における授業時間数の削減を要請していることは事実であり,止むを得ない面もある.教育のなすべきことを本当に考えるならば,各科目の時間数を平均的に減らすのではなく,初等・中等教育において何を実現すべきかという視点から,科目構成そのものを抜本的に検討しなおす必要があろう.
読み,書き,算盤というが,合理化をしたり,手抜きをしてはならない基本的なものがある.永年大学で教育に関ってきて思うことであるが,どんなに教育方法を工夫し,内容を精選しても,教育にかける時間の効果には絶対にかなわない.数学に関るものがこのような主張をすると,普通の社会人として必要な算数,数学は四則演算で充分であり,例えば2次方程式の解の公式などは何の役にも立たない,と言われる.これは何も著名な作家の言だけではなく,私の家族でも当然のこととしている.ここに既に算数数学教育に対する根本的な誤解がある.数学が計算力の修練と記憶の学問と理解されており,所謂,受験数学がこれを助長している.
2次方程式の解の公式は覚えるものではなく,解の意味を理解すること,どのように解くかを考え,特定の方程式に限らず一般的に係数についての式で解を表すことに到達する.そこには,特殊と一般との違い,ひいては代数というものの考え方まで含んでいる.こういう思考訓練が数学教育の本当の意味であろう.まやかしのレトリックやもっともらしい数値データに誤魔化されない判断力を身に着けて欲しいと願うものである.
ある高等学校の先生に聞いた例を挙げておこう.初等・中等教育における学級の規模を小さくすべきであるという主張は強いにもかかわらず,文部省は重い腰を上げようとはしない.国立の研究所が世界的な共通試験のデータを使って,学級規模と成績との関係を調査してみたところ,学級規模が大きい方が成績が良いという結果が出た.これは一見意外な結果であるが,教育現場を良く知っている者から見れば当然である.40人を超えるような学級編成を行っている中学校,高等学校がどこであるか考えれば自明な結果である.こういうデータに振り回されない様にしたいものである.
(理事 丸山正樹)
5巻2号
国立大学を独立行政法人化(独法化)しようという流れが新しい段階を迎えている.
日本数学会は夙に本年2月1日付けで理事長名の声明書「国立大学の独立行政法人通則法による法人化は日本の研究・教育を改革するか?」(数学通信第4巻第4号22ページ)を公表し,「独立行政法人通則法」に基づく国立大学の法人化が学問の自由の原則と相容れないものであること及び大学における基礎研究・独創的研究への障害となる危険性をはらむものであることを指摘している.
この問題については国立大学協会も独立行政法人通則法をそのままの形で国立大学へ適用することに対して反対の立場をとってきた.また,文部省も国立大学の法人化は通則法そのままの適用はふさわしくないとしながらも,「学長などの人事」「中期計画・中期目標」「財務会計」「評価のあり方」などについては国立大学の特性を踏まえた特例的措置をとることによって国立大学の独立行政法人化を大学改革の一環として位置づけている.
去る5月26日に開催された国立大学長及び共同利用機関長会議において中曽根文部大臣は文部省の方針を説明して概略次のように述べた.「現行設置形態での国立大学の意思決定や財政使途等への裁量権の制約を緩和し,教育研究システムや組織運営の自主性・自立性,自己責任を拡大するために国立大学にふさわしい形の法人化を検討する必要があり,独立行政法人制度は国立大学についても十分適合するものである.その際,大学の教育研究の特性を踏まえ,自主性・自立性を実質的に拡大するため通則法との間で一定の調整を図ることが不可欠である.そのために国立大学関係者や公私立大学,経済界,言論界などからの有識者による「調査検討会議」を設けて調整法(特例法)など法令面について幅広い検討を進め,平成13年度中に取りまとめの上これを踏まえて独立行政法人化後の大学のあり方について最終的な結論を得たい.」
「国立大学を独法化すべし」という流れは行政スリム化の一環として行革会議から出されたものであって,我が国の高等教育と学術研究のあり方を吟味した結果によるものでないことは非常に残念なことである.実際,大学審議会の答申「21世紀の大学像と今後の改革の方策について」(1998年)においてさえ,国立大学の設置形態について格別の問題提起はなされていない.効率化をベースとする独法化の発想に対して,経済効率性などでは計り得ない意義をもつ数学など基礎科学の教育研究分野から,あるいは全国各地において乏しい予算の枠内で独自の役割を果たしてきた地方国立大学などからこの制度を国立大学へ適用することについての厳しい批判がある中で,真の意味で我が国の高等教育制度にプラスの方向が打ち出せるのか,調査検討会議の審議の行方には我が国の学術文化の死活がかかっていると言っても過言ではない.
ともあれ,国立大学の設置形態までもが見直されようという時代変革の中にあって,我が国の数学研究体制を21世紀に向けてより発展させるためにも,自由な教育研究活動が保証され,かつ,それに対して多数の国民からの理解と支持が得られるよう一層の努力がなされねばならない.そのためには,ややもすれば研究至上主義に陥り勝ちな国立大学の数学担当教官はその意識を改め,文化としての数学の役割を再認識しなければならない.道具としての「科学のことば」を超えて,人類の文化発展を支える科学的思考・創造的発想の基盤としての「数学」の役割を教師自身が自覚し,学生に真に伝えたいことは何かを自らに問いつつ,国民の立場に立った教育こそが今まさに求められている.
(島根大学長 吉川通彦)
5巻3号
先般の教育課程審議会の論調や大学の組織改革に際して苦労話を聞くにつけて,世の中の数学に対する逆風が気がかりである.しかも,その底流には,数学に関する理解の不足があるだけでなく,数学者の肌合いや気風に対する,反感・違和感があるらしい.かねがね,数学のシンパであった理工系の有識者の間でも「数学者のやっていることは役立たない」という従来からの批判だけでなく,「数学者はオタクだから応援できない」という拒否的な情緒が生じている.これらには,それぞれに反論や弁明があり得るが,逆風をおさめ,知遇を回復するためには,「よって来るところ」を冷静に省みる必要があると思う.なお,オタクの意味を広辞苑に従って掲げておこう:
(御宅の意味の4番目)(多く片仮名で書く)特定の分野・物事にしか関心がなく,
その事には異常なほどくわしいが,社会的な常識には欠ける人.仲間内で相手を
「御宅」と呼ぶ傾向に着目しての称.
私は,若い数学者,とくに,これからデビューしょうとする人達が「数学オタク」であることは,むしろ結構なことと思う.数学への集中・愛着を意味する点においてである.2000年の夏のシドニー・オリンピックで見事に女子マラソンの金メダルを獲得した高橋尚子選手は,直後のインタービューで「楽しい42.195kmでした」との名言を発した.高橋嬢はいい意味でのマラソン・オタクである.
一方において,数学オタク,さらに狭窄して,代数オタク,幾何オタク,…というように数学の特定分野のオタクになったままでは困るし,他人を困らせるのは“偉くなってから”である.第一に,大学の教官になれば,学生(院生を含む)の教育を担当する.ところが,学生の多くは,数学の素養(知識・知恵)を活かしながら多様な職業につく.それらの職業が求める数学的素養について無知・無関心であれば教育者として無責任である.
オタッキーでは困る第二の場面は,人物や業績の評価を担当するときである.大学の人事や学会の授賞の推薦などがこれに当たる.なじみの少ない“他人事”について認識の努力をしないで,「自分の分かることしか言えないから,仲間を推す」というのは,甘えでなければ居直りである.また,数学を越えた組織や世間に数学界に対する理解を訴えるときは,相手を考慮しての工夫と努力が礼儀としても戦略としても必要である.
最後に,数学者は,現在のみならず,数学の未来を展望せなばならない.科学技術の劇的な変容が予期される新世紀における数学を構想するためには広い視野と柔軟な度量が必要条件である.筆者は,数学者の思弁に基づいて自律的な発展を挙げた今世紀の数学は,その特色である内向性と自己完結性のゆえに転回期にさしかかっていると考えている.また,現象に対する人類の認識力を格段に支援して科学技術の顕著な発展を誘発しているコンピュータが,新世紀においては,さらに人間の脳力を解放する(機械が人間の筋力を苦役から解放したことになぞらえるべき意味で)域に達するであろう,そうして,そこでの数学の発展は,H. ポアンカレが述べた(「科学の価値」,第二部 物理的科学)意味で,外界とのつながりから創造性の活力を汲み取ることにより可能であると信じている.
(藤田 宏)
5巻4号
今年2001年は, 21世紀及び第3千年紀の始めである. 少なくとも律儀な我が国ではそのような理解が浸透しているようであるが, 欧米では一般には必ずしもそのように受け取られていないようである. 特に, 第3千年紀に関しては, 既に昨年の2000年に盛大に祝ってしまった 国が欧米に多いようである. 紀元1年から100年間単位や1000年間単位で計るのが理屈の上では 正しくとも, ゼロが沢山ついている数のほうが特別だと考えるのも人情であろう. 少し大げさに言えば, 欧米主導による理屈に合わない グローバル・スタンダードが成立してしまう一例であろうか.
いささかこじつけ気味ではあるが, 我が国の数学の国際化についてこの観点から少し考えてみたい.
20世紀中に, 我が国の数学研究のレベルが世界的に見ても第一級の仲間入り したことにどなたも異論はなかろう. 1990年夏には国際数学者会議(ICM90)を, 2000年には数学教育世界会議(ICME9)を我が国で成功裏に開催できたし, 毎年行われる日本数学会国際研究集会や京都大学数理解析研究所プロジェクト研究 も世界的に認知されているであろう.
そもそも, 数学における国際化は他分野に較べはるかに進んでいるようである. 例えば, 大学におけるシンポジウム・講演会・談話会等における外国人数学者の 講演には, 通訳を付けないのが当り前であるし, 論文は欧文による ことが当然とされる. 数学では, 大学院生はもとより4年次の学生もそんなものだと 理解しているであろう. 他分野ではあまり例のないことであると常々感じている. この状況は, 筆者が直接に体験した1960年代から既にそうであった.
数学における我が国の国際的地位の向上には, 1998年12月で終了した財団法人谷口工業奨励会四十五周年記念財団による 谷口シンポジウム等を通じて谷口豊三郎氏が果された役割も極めて大きい. また, 稲盛和夫氏によって1984年に設立された財団法人稲盛財団による京都賞を, R. E. Kalman, C. E. Shannon, I. M. Gelfand, A. Weil, D. E. Knuth, 伊藤清といった錚々たる数理科学者がこれまでに受賞されていることや, 広中平祐氏によって設立された財団法人数理科学振興会の 助成・援助活動を通じた貢献によって, 我が国の数学の国際的地位が 一層高まっていることも確かであろう. 科学研究費補助金を活用することが以前に較べ遥かに容易になったお蔭で, 日常的な国際的研究交流がやっと欧米並みになった. 今後とも数学における我が国の国際的貢献がますます活発になることは間違いなかろう.
しかし, 数学研究面で世界的リーダーと目される日本人数学者も既に沢山 おられる中で, 更に一歩進め, 数学における21世紀の研究動向や グローバル・スタンダードを設定するようなカリスマ性あるリーダーが 出現されることを期待できないであろうか. 2001年4月から始まる次期科学技術基本計画では, 我が国からのノーベル賞受賞者を今後50年間に30人という目標を 掲げるようである. そのことの当否はともかくとして, Fields賞や京都賞の受賞者が 我が国からもっと現れてもおかしくないと思われるので, 特に若い世代の 方々に期待したい.
小田忠雄(東北大学)