2008年度日本数学会賞秋季賞

2008年度日本数学会賞秋季賞

小澤 正直(名古屋大学大学院情報科学研究科)
量子情報の数学的基礎

1994年のShorの量子アルゴリズムの発見以降,量子計算機の実現を志向した 量子情報の研究が爆発的な勢いで展開中ですが,小澤正直氏は1980年代から 今日まで,関数解析と数学基礎論を基礎に,数学,量子物理学,計算機科学に 亙る広大な境界領域で量子情報の研究を一貫して推進し,数理物理学, 数学基礎論,計算機科学,物理学の各分野で多くの研究成果を得てきました.

特に不確定性原理の再定式化を巡るこの数年間の研究は,極めて広い注目と 関心を集めています.1927年のHeisenberg による不確定性原理の提唱以来, 物理量の測定誤差とそれと非可換な物理量の観測による擾乱との積の下限は それらの交換子で定まると信じられてきましたが,小澤氏は2002年,それが 正しくないことを明らかにし,翌年それに替えて従来物理学者が予想も しなかった,小澤不等式と今日呼ばれている新しい不等式を提案し,自ら 構築した測定理論の厳密な数学的定式化の下にそれを証明いたしました. 更に,保存則の下での測定精度の限界を与えるWigner-Araki-Yanaseの定理 を定量的に一般化し,それに基づいて量子計算素子の精度の限界に定量的な 評価を与えて,量子計算機の実現において,保存則から来る強い制約がある ことを明らかにしました.量子計算量の理論に関しても,西村氏との共同研究 で量子Turing機械と量子回路モデルの計算量的な同等性を初めて厳密に証明 しました.これらの研究は厳密な数学的定式化と証明に基づいたものですが, 物理学の基礎に対する重要な貢献として広く認められています. 小澤氏は物理的に可能なすべての量子測定の統計的同値類を作用素環上 の完全正写像に値を持つ測度として完全に特徴づけていますが,これは 「物理的に可能なすべての量子測定を数学的に特報づけよ」という, 測定理論に関するHilbertの第6問題を最終的に解決したものといえます.

レーザーの発見以降,急速に進歩した量子制御技術を用いて可能となった 重力波の検出の方法を巡って,共振器型と干渉計型の二つの方法の優劣を 巡る論争がありました.これに関して,1988年当時,干渉計型には 不確定性原理に基づく原理的な検出限界「標準量子限界」が存在するという ことが定説になりつつありましたが,小澤氏はこの「標準量子限界」を 打破する測定モデルを構成して,この論争に決着をつけました.その結果, 現在では重力波検出実験は専ら干渉計型検出方式で研究が進められていま すが,この小澤氏の測定モデルはHeisenberg不等式の破れを明らかに示す もので,測定精度と観測による擾乱の普遍的関係を解明する研究の発端と なり,先に述べた小澤不等式の発見に結実しました.

1990年代以降,この測定理論は標準理論としての地位を築き,量子測定の 標準的な教科書に採り入れられています.特に90年代後半以降の量子情報 理論の研究の爆発的な進展において,完全正写像値測度による測定の定式化 は量子情報理論に不可欠な基礎を与え,量子力学の基礎に関する教科書にも その特徴付けが紹介されるに至っています.

最近の小澤氏の研究は量子力学の論理的解釈に向かい,1981年竹内外史氏の 提案以来,進展のほとんどなかった量子集合論を飛躍的に進展させ,二つの 物理量の所有値の同一性が量子集合論での実数の集合論的同一性と等価なこと を示しました.今後更なる理論展開が期待されるところです.

以上,小澤正直氏の研究業績は顕著であり,日本数学会賞秋季賞に誠に ふさわしいものです.

日本数学会
理事長 谷島 賢二