2004年度日本数学会賞春季賞

2004年度日本数学会賞春季賞

熊谷 隆(京都大学数理解析研究所)
フラクタル上の確率過程の研究

フラクタルの幾何学的性質の研究は,古くから行われており,特に1960年代から盛んになった.一方,フラクタルの解析的な性質については,物理学者らが興味を持っていたが,本格的な数学的研究は1980年代に始まり,自己相似フラクタルの上に自己相似な拡散過程を構成することが最初に試みられた.この拡散過程は後にユークリッド空間との類推からブラウン運動と呼ばれ,その生成作用素はラプラシアン,その遷移確率密度関数は熱核と呼ばれるようになった.まず,最も簡単なフラクタルであるSierpinski Gasketに対して,ブラウン運動・ラプラシアンの構成,熱核の挙動の研究が,楠岡,木上,Barlow--Perkinsらにより行われた.そのような中で熊谷氏はフラクタルの解析的研究に参入していった.

熊谷氏は,まず非対称な自己相似な拡散過程をSierpinski Gasketの上に構成した.さらに,より一般的なnested fractalと呼ばれるフラクタルの上で熱核の劣ガウス型評価を与え,熱核の短時間での大偏差原理をも与えた.また,統計的自己相似性を持つランダムフラクタルの上のブラウン運動の構成を行い,その性質を研究した.また,ブラウン運動に付随するDirichlet形式の定義域がBesov空間であることを示し,ユークリッド空間内にフラクタルの形状をした異質な媒質が存在している場合に,対応する自然な拡散過程を構成した.このように,熊谷氏は,一般的かつより複雑な構造を持つ自己相似フラクタル上のブラウン運動に関して,多くの基本的な性質を示した.

完全な自己相似フラクタルの構造を持つ物理的対象物は,現実には存在し得ない.フラクタルの解析的研究は,局所的には普通のユークリッド空間的構造を持つが,大域的にはフラクタル的構造を持つ空間の解析的な性質を調べることを目的の1つとしていた.幾何的に見て,大域的にフラクタルと見なせる空間においては,その解析的な性質も大域的にはフラクタルと同じであろうという直観が,その研究の支えとなっていた.熊谷氏はまずhomogenization (均質化) が自己相似フラクタルで成り立つことを示し,その直観の1つの数学的正当化を行った.しかし,Homogenizationはかなり強い仮定の下でしか成立しない.熊谷氏は,現在,幾人かの数学者と共に,全く一般の空間において,緩やかな検証しやすい仮定の下に,放物型Harnack不等式や熱核の評価などを導くという研究を行っており,既にいくつもの結果を得ている.これにより,特別な場合には,先に述べた直観は数学的に証明されたことになる.この研究は現在も進行中であり,複雑な空間における大域解析の研究に大きな進展をもたらすと期待されている.

以上のように,熊谷氏は,フラクタル上の確率過程の研究に大きな貢献をしたのみならず,フラクタルを含む一般の空間の上の大域解析に新たな見通しを与えつつあります.このように同氏の研究業績は顕著なものであり,2004年度日本数学会賞春季賞を授与するにふさわしいものであります.

日本数学会
理事長 森田 康夫