2006年度日本数学会賞秋季賞

2006年度日本数学会賞秋季賞

磯崎 洋(筑波大学大学院数理物質科学研究科)
'散乱理論と逆問題の研究'

電子や原子など微細な粒子の運動法則を発見するのに, これらの粒子にほかの粒子を衝突させその結果から粒子の間に働く力を決定する 散乱の方法があります. 磯崎氏の研究はこの散乱の問題に数学的な基礎を与える 散乱理論に関するものです.

関係する粒子がきわめて高エネルギーでなければ, 粒子の運動は(非相対論的な)量子力学によって記述され, 状態の時間発展が, マイナスラプラシアンとポテンシャルの和として表される シュレディンガー方程式で特徴づけられます. したがって散乱理論では,
(a) ポテンシャルが与えられた時に散乱の様子を決定する順問題,と
(b) 逆に散乱の結果からポテンシャルを決定する手続きを与える逆問題
の二つが主要な問題になります.

散乱問題は量子力学における最も重要な問題の一つで, その誕生と同時に研究が始まりましたが, 多次元空間における数学的に厳密な散乱理論が現れたのは, 加藤敏夫らによって関数解析の手法が導入された1950年代です. それ以来, 多くの数学者によって研究され, わが国の数学者もその発展に大きく寄与してきました. その結果, 散乱の完全性などの概念的な問題は1990年までにほぼ解決されました. しかし, 具体的な問題については現在でも完全な解決にはほど遠く, とくに逆問題は最も簡単な2粒子散乱に対してさえ完全には解決されていません.

磯崎氏は多くの研究成果を通して散乱理論の発展に寄与してきました. 今回授賞の対象になったのは (1)3粒子散乱問題に対する固有関数展開定理の証明と, (2)逆問題を解決する有力で新たな手法を与えた研究 です.

(1)散乱理論では散乱の結果をエネルギーをパラメータ とする作用素で表現します. 2粒子散乱ではこの作用素は単位球面上の積分作用素となり, 散乱解と呼ばれる運動量をパラメータとする シュレディンガー作用素の固有関数によって表現されます. このとき, フーリエ変換のように, 任意の関数がこれらの固有関数の重ね合わせで表現されることが, 固有関数展開定理としてよく知られています.

磯崎氏はこの結果を粒子数が3の場合へ拡張しました. 粒子数が大きくなると散乱現象は著しく複雑になり, 古典力学の3体問題と同じように問題は飛躍的に難しくなります. このため, 3体散乱に対しては1963年にL. D. Faddeev によって固有関数の完全系の存在が示されて以来, この問題に関する進展が長期間ほとんどありませんでした. 磯崎氏はレゾルベントの超局所的評価などを用いて固有関数を解析する独自の方法を開発し, 3体問題に対する固有関数展開定理を完全に証明し, 散乱作用素の積分核を固有関数の漸近形で2粒子散乱の時と同様に書き表すことに はじめて成功しました. これによって3体散乱についての理解は著しく深まったと言えます.

(2)逆問題は2粒子系以外は全く手がついていません. 2粒子系の場合も, 問題が1次元的な場合を除くと, 現在でも完全には解決されていません. 磯崎氏の仕事も2粒子系に関するものです.

ポテンシャルが有界な領域の外で0のとき, 散乱の逆問題は, 物体の表面においてデータを観察しその内部の様子を探るという, 応用上重要な境界値逆問題と同値であることが 知られています. すなわち, 境界の上の関数の間の Dirichlet-Neumann 写像からポテンシャルを 求めるという問題です. 逆問題を取り扱う手法はきわめて限られていましたが, 磯崎氏はユークリッド空間における問題を双曲空間における 境界値逆問題に変換して解析する手法を発見し, 逆問題に幾何学的性質を用いた新たな研究手段を与えました. これによって, 例えば Dirichlet-Neumann 写像の境界の一部におけるデータから, 物体内部の含有物の位置を特定する数学的なアルゴリズムが得られるなど, 多くの新しい研究成果が得られつつあります.

以上のような, 磯崎氏の散乱理論と逆問題に関する深い成果は, 2006年度日本数学会賞秋季賞に誠に相応しいものであります.

日本数学会
理事長 小島 定吉