2023年度日本数学会賞秋季賞

2023年度日本数学会賞秋季賞

Benoît Collins(京都大学大学院理学研究科)
ランダム行列と自由確率論

ランダム行列とは成分が確率変数である行列のことである.J. Wishartが多変量の共分散推定の研究で導入したのが最初とされる.1950年代のE. Wignerの核物理に関する仕事を契機としてランダム行列のスペクトル (固有値) 理論が発展した.ランダム行列理論は現在では確率論,解析学はもとより表現論,数論,組合せ論など多くの数学分野と関連して研究が進み,また数理物理を始めとして多方面に応用が広がっている.他方,自由確率論は1980年代以降D. Voiculescuを中心に発展した非可換確率論の一種であり,古典確率論の独立性に代わる自由独立性が基本的である.通常の独立性がテンソル積で生成されるのに対し,自由独立性は自由積で生成されることから,自由確率論は作用素環論で重要な自由群環とそれに類似する作用素環を研究するための有力な方法論を与える.自由確率論の発展において特筆すべきことは,成分が独立な幾つかのタイプのランダム行列がサイズ無限大で自由独立な非可換確率変数のように振る舞うという事実である.漸近的自由性と呼ばれるこの事実に基づいて,ランダム行列モデルが自由確率論の研究のための強力な道具となり,逆にランダム行列の研究に自由確率論がしばしば有効に使われる.この結果,ランダム行列と自由確率論は密接な協力関係のもとに目覚ましく発展している.

Benoît Collins氏はランダム行列と自由確率論を相互に関連させて研究し,また量子情報の問題への応用を意図して,数多くの優れた業績を挙げられている.これらの業績は世界的に高い評価を受けており,ICM 2022で解析学,確率論の2つのセクションにまたがる招待講演を行っている.2003年以来既に80編を超える論文を発表されているが,ここでは最近の成果から幾つかを紹介する.

分布収束に関する定理であったVoiculescuの漸近的自由性は幾つかの論文で概収束の定理に改良された.例えば,U. HaagerupとS. Thorbjørnsenは独立なGUE (Gauss型ユニタリ・アンサンブル) の非可換多項式の作用素ノルムが概収束するという強漸近的自由性を示した.Collins氏とC. Male氏は共同で2014年にHaarユニタリ行列に対して同様な結果を示した.Collins氏は2019年に数学のトップジャーナルであるAnnals of Mathematicsに発表されたC. Bordenave氏との共同研究で,独立なランダム置換の置換サイズが無限大に収束するときの強漸近的自由独立性を証明している.この結果の副産物として,有限グラフのランダム持ち上げのスペクトルを下から評価する一般化されたAlon–Boppana予想として知られる長年の予想を証明し,ランダムグラフのスペクトル・ギャップに関するJ. Friedmanの有名な予想を予想より強い形で解決している.Collins氏は最近Cambridge Journal of Mathematics (2022年) に発表されたA. Guionnet氏,F. Parraud氏との共同研究で,HaagerupとThorbjørnsenの定理をさらに強くした結果を証明している.これはGUEに対する強漸近的自由性の定理として決定的なものである.他にも,J. Novak氏,P. Śniady氏と共同研究した複素線形群の既約表現から派生する量子ランダム行列の半古典的極限での漸近的自由性や,早瀬友裕氏と共同研究した深層ニューラルネットワークの多層パーセプトロンに現れるヤコビアンの漸近的自由性など興味深い結果を得ている.

I. Nechita氏と共著のJournal of Mathematical Physics (2016年) のレビュー論文で概観されているように,Collins氏は2010年頃からランダム行列と自由確率論の量子情報の研究における有用性に着目し,ランダム状態やランダム量子情報路の手法を使って,エンタングルメントの関連や最小出力エントロピーの加法性の反証などの量子情報の重要な問題で多数の先端的な成果を挙げてきた.最近では,数理物理のトップジャーナルであるCommunications in Mathematical Physics (2018, 2020年) に発表されたM. Brannan氏達との共同研究で,ランダム量子情報路の代わりにコンパクト量子群の表現論を用いた量子情報路の構成により,量子情報路に関する多くの具体的で精密な結果を得ている.

以上の説明のようにBenoît Collins氏の多彩で卓越した業績は日本数学会賞秋季賞に誠に相応しいものです.

日本数学会
理事長 鎌田 聖一