日本数学会のあゆみ

高木貞治50年祭記念事業

「高木先生の思い出」(末綱 恕一)--「数学」12巻3号より

高木先生の思い出

末綱 恕一

2月18日は寒い日であった. 私はある用事で伊豆の川奈に出掛け, 晩おそく帰ったが, 帰途箱根では雪が降っていた. 帰宅してみると, 黒田 (成勝)君からの電話で, 高木先生のご様子がよくないというので, 翌朝お見舞にうかがうと, 大阪から正田君が来ておられて, 一緒にお目にかかった. 脳軟化症か脳出血かで (後で併発ということがわかったが), 再発しなければ, ご恢復になるであろうとのことであった. 27日に東大沖中内科に入院されたので, お見舞いすると, 今度はむずかしいご様子で, われわれは病院にまかせるより外に, 何とも仕方がなかった. 翌28 日は暖かい日曜日で, 昼食後散歩に出ている間に電話でお知せを頂き, 早速沖中内科に馳けつけたが, もう安らかにご永眠であった. この日の晩は先生のお宅で, 黒田・弥永両君, その他の諸君と, ご葬儀のことなどについて相談をして, 夜おそく帰宅した. 床につくと, 涙がこぼれて仕方がなかった.

3月.3日, 青山葬儀場で, 宗教とは無関係の形で, 告別式が挙行された. 午前中は晴れていたが,後曇り, 薄ら寒い日であった.

私が東大数学科に入学したのは, 大正8年 (1919) であった. 当時日本の数学界で欧文誌としては, 東大・京大・東北大の理学部紀要の外, 数学物理学会雑誌と東北数学雑誌があった位で, 日本の数学では, 仙台が最も盛んであるような印象を与えていた. 高木先生は1898年から1901年までドイツにご遊学の際, 主としてゲッチンゲンの Hilbert の所で学ばれ, Gauss の数体における虚数乗法に関する論文を, 発表しておられる. また第1次大戦以来, 類体論の構成に関する六つの論文を数学物理学会雑誌に出しておられる. '新撰算術' のような著述は, 私も早くから拝見したことがある程で, その御名は識者の間では非常に畏敬されていたけれども, 一般にはまだたいして知られていなかったよ うである.

翌大正9年 (1920) には, 先生の画期的な主著 '相対 Abel 数体の理論について 'が, 東大紀要に発表された. 私が大学1年生のとき, 先生はこの偉大な論交の原稿を書きまとめておられたのであるが, われわれ学生はそんなことには全く気がつかなかった. 夜中に勉強されるとのことであったのは, そのような事情があったからかもしれない.朝の講義に大分おくれておでましになることがあったのも, その所為であろう. 私が2年生のとき,先生はストラスブールにおける数学者国際会議に出席されて, この論文の概要について講演された.当時教授の外遊というのは, 短くても1年位はかかったもので, 私が2年生のときには先生はご不在であった. 3年生になってある機会にお訪ねした際, この論文の別刷りを頂戴して帰ったが, なかなか読むことができない. 代数的整数論に関しては, 先生の講義で2次数体のことを聴き, 外に Weber の'代数学教科書' 第2巻'代数的数' を見たばかりで, 後になって Hilbert の'整数論報告'に仏訳単行本があったのを注文して, 勉強したことであった. この当時先生に勧められて, Landauの'代数的数とイデアルの基本的並びに解析的理論への入門書' (1918) を読んだのが, 私が解析的整数論にはいる第一歩であった.

私が大学を卒業したのは大正11年 (1922) であって, この年先生の第二の大著 '任意の代数体における相互法則について 'がまた東大紀要に出ている. この論文によって一般相互法則の本質的なことが判明したのである. 私は昭和2年 (1927) ドイツに遊学し, 夏ゲッチンゲンに着くと間もなく,ハンブルグの Artin から手紙が届いて, 一般相互法則が証明できたというので, 直ぐにもハンブルグに行きたいようであった. しかし当時ゲッチンゲンには Hilbert や Landau がいたので, 四学期滞留して, ハンブルグにおもむいた. ハンブルグには Artin の外, Hecke や Blaschke がいた.一般相互法則というのは, Artin が先生の1922年の論文を見て, 一般群指標による L 級数を導入したときに (1923), 定式化され, 特殊の場合には証明されたもので, 1927年になって一般に解決されたわけで, 類体論における画竜点晴ともいうべき業績である.

先生の主著は, Hecke がフォルトシュリッテに紹介し, 前述のように Artin らは早く注目していたけれども, 数学界一般に知られるようになったのは, Hasse がドイツ数学者協会年報の特別号 (1926以降) に類体論の紹介をして以来である. 今日類体論といえば, 代数的整数論ばかりでなく,種々の分野に影響があって, 広く知られているのと比較して, まことに隔世の感がする.

先生は類体論について講義されたことはないようである. 基礎体を2次数体にしてもたいして簡単にならないからやめたと, いつか仰せられたことがある. もちろん先生の下で類体論を勉強した学生は, 相当多数あるはずである. 先生の講義の中で, 私が特に思い出すのは, 1年生のとき聴いた Minkowski の'数の幾何学 'についてのことで, 2次元の場合を主として話されたのであるが,実に面白かった. 3年生のとき聴いた群論もよかった. 当時は Speiser の'有限群論' もまだ出てなかったのである.

昭和6年 (1931) 私が帰朝してから, 先生にお願いして, 数学教室で金曜日の午後談話会をすることになった. 始めは代数学整数論方面ばかりであったが, 掛谷 (宗一) 先生などが常連になってからは数学一般の談話会になった. 談話会の後, 一緒にお茶を飲むこともあったし, 時には晩さん会を催すこともあった. 先生は時には辛らつな批評をなさったが, 政治的というようなところはなかった.

大学では学長学部長は言うまでもなく, 評議員さえされたことがなく, 学会の世話人というようなこともほとんどされたことがなかった. しかし数学の談話会には好んで出席され, 晩さん会では相当に召し上がったようで, 当時の思い出は, 何よりなつかしいものである. 第2次大戦の末期,東大数学教室が諏訪に疎開したとき, 私も随って行ったが, 先生もしばらく諏訪においでになった. 先生もまた物資がなくてお困りのご様子を拝し, 政府は何とか特別の考慮をなすべきであると,思ったものである. 普通よりも小さいルックサックを背負った先生のお姿が, 今も眼のあたりほうふつとする.

先生の喜寿 (数え年) をお祝いする意味で, 数学会欧文誌の特別号を出し, その機会に相当盛大な晩さん会を開催する心算であったが, 先生の右膝に故障が起こり, 晩さん会は取りやめざるを得なかった. 爾来お宅に閉じこもられ, 学士院の例会にも春秋2回位しかご出席にならなかった. それでも何かのことでお訪ねすると, 以前と同様にお話し下されたものである. 何かご意見をうかがうと, 何とも仰せられない場合もあり, 意外に判然と仰せられる場合もあった. 時によると叱られることもあった. 確かに気むつかしいところはあったが, またとてもやさしいところがあって, 先生に近づくことのできた者は, 皆忘れることのできない思い出を持っているようである. 学者というものが次第に世俗化して来るのを見ると, 先生のような方は, めったに現われないことであろうと,思われる.

今年の正月, 先生をお訪ねすると, 何だかお歳を召されたという感がして, 意外に思ったのであるが, その後二月も経たないうちに御易簑なさろうとは, 夢にも思わなかった. うかがっておきたいことがいろいろあったのに, 今ではどうすることもできない.

何世紀か経つと, 日本の数学者として関孝和と高木貞治との名が, 他と比較にならない程大きいものになるであろう. しかし関孝和は和算とともに歴史的な過去の存在であるが, 高木先生の影響は, 世界の数学界にながく残るに相違ない.