2013年度日本数学会賞秋季賞
辻井正人(九州大学大学院数理学研究院)
微分可能力学系のエルゴード理論における関数解析的手法

力学系とは時間発展を記述する数学的モデルであり, 一般に自然科学・工学などの諸分野では,自然現象に対してそれを説明する理論 を構築するが,多くの場合,対象の時間的変化を数学的モデルにより記述する. 例えば,ニュートンの運動方程式は,物体の運動を記述するモデルとして 微分方程式を与え,その解が物体の運動を表す.このようなモデルについて, その軌道の様子および系のパラメータへの依存性などを研究するのが, 数学としての力学系研究の立場である.特に,決定論的であるにもかかわらず 予測不可能な挙動(いわゆる‘カオス’的挙動)をする力学系は非常に多く, また普遍的に存在し,力学系研究の中心的な対象となってきた. このような系については個々の軌道について議論することはあまり意味をなさず, むしろ軌道の統計的分布を記述する不変測度の研究をするエルゴード理論の立場が 重要になる.

辻井氏は,このような力学系について,様々な角度からエルゴード理論的性質の研究を行った. 力学系の不変測度の研究でよく用いられるものとして転送作用素がある.これは, 力学系の作用をある種の関数空間に誘導し,その固有関数が重要な不変測度に対応したり, 第2スペクトルとの比が相関関数の減衰速度を決定したりする.また,そのスペクトルの分布の 情報が力学系的ゼータ関数の解析接続の範囲を規定することになる. 最近の辻井氏の研究は,アノソフ写像(Baladi氏との共著)および接触アノソフ流に対し,転送作用素の 作用すべき関数空間を通常のソボレフ空間ではなく,力学系の拡大的・縮小的方向に 付随した方向に応じて重みをつけた非等方ヘルダー空間およびソボレフ空間を導入することにより, 転送作用素のスペクトルについてその本質的スペクトル半径などの評価を行い, その応用として,対応する力学系的ゼータ関数の解析接続半径の評価を行った.特に接触アノソフ流に関する 研究では,流れのベクトル場方向に適合した評価をする必要があり, 関数を相空間とフーリエ波数空間の両方で局在化した波束に分解するFBI(Fourier-Bros-Iagolnitzer) 変換を 導入して研究しており,この手法は今後の転送作用素の研究において重要な役割を演じると思われる. 辻井氏は,非等方ヘルダー空間およびソボレフ空間を使う手法を,円周上の拡大写像に連続時間方向を加えて流れにした サスペンジョン流が多くの場合,弱混合的になる証明にも応用している.

また,辻井氏はこれ以外にも,軌道の統計的分布を記述する上で重要な 不変測度の研究を行っている.多様体上で定義された可微分力学系については, ルベーグ測度に関し絶対連続な不変測度は特に重要な意味をもち, その存在は常に問題となる. 辻井氏は1次元円周上の拡大写像にもう1次元加えた歪積写像で,ファイバー方向には拡大的挙動と 縮小的挙動が混在しているようなものに対して,ある条件の下で 2次元ルベーグ測度に絶対連続な不変測度が存在することを示した. この力学系は現在ではSolenoidal attractorと呼ばれ,それまで知られていた絶対連続な不変測度を もつ力学系とは全く異なるメカニズムをもち,この研究により辻井氏は 興味深い力学系の新しいカテゴリを開拓したといえる.辻井氏はその後の AvilaとGuezelとの共同研究でこの不変測度の密度関数の滑らかさに関する結果も得ている.

さらに以前の結果では,従来からよく研究されている実1次元力学系の族について, Collet-Eckmann条件というある種の弱い拡大性をもつパラメータの集合の 測度が正になることを示した.Collet-Eckmann条件は絶対連続な不変測度の 存在を導くことが知られ,同様の結果は(Jakobsonの先行結果に続き)Benedicks-Carlesonに よって得られているが,その証明は帰納的構成が入り組んで非常に見通しの悪いものであった. 辻井氏の証明はCollet-Eckmann条件を導くパラメータの選定条件を 帰納的構成ではなく明示的に示したものであり,今後の同様の問題の研究を進める上でも 重要である.

一般の力学系については,一つの初期値から出発した軌道の長時間分布を 記述する不変測度が存在するかどうかは重要な問題であり,このような測度は 物理的測度と呼ばれる.最も望ましいのは,有限個の不変測度によって ほどんどすべての初期値に対する軌道の分布が記述できる場合で,かなり多くの力学系に対し このようになっていることが予想されているが,現在でも未解決の問題である. 辻井氏は,2次元トーラス上の部分双曲系(拡大的方向が1次元あり,もう1次元方向は 拡大・縮小が混じる系)の集合内で,ある微分可能性条件の下で 多くの(ジェネリックな)系が有限個の物理的測度をもつことを証明した. これはよく研究されている双曲型力学系を超えた範囲での物理的測度の存在を 示す重要な一歩である.

このような辻井氏の力学系理論・エルゴード理論における先駆的かつ重要な研究業績は, 日本数学会賞秋季賞に誠に相応しいものである.

日本数学会
理事長 舟木 直久


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最終更新日: Jan 24, 2014