2005年度日本数学会賞秋季賞
小野 薫(北海道大学大学院理学研究科)
シンプレクティック幾何学の研究

小野薫氏は,シンプレクティック幾何学において多くの基本的かつ重要な貢献を残しておられます.とくに近年の顕著な業績として `フラックス予想の解決' が挙げられます. 小野氏が2004年に証明したこの予想は,シンプレクティック幾何における基本問題として専門家に意識されて以来,20年以上の間未解決でした.

シンプレクティック構造は,歴史的には,Newton力学を座標に依存しない体系として定式化したLagrange, Hamiltonの解析力学の中で,力学系と相伴う形において現れました.時間に依存するHamilton函数がシンプレクティック構造をもつ相空間上に与えられたとします.このとき相空間上に時間に依存する流れが生じ,この流れがNewton力学における微分方程式と等価になります.Hamilton流はシンプレクティック構造を保ちます.しかし,逆は真ではなく,シンプレクティック構造を保つ写像は必ずしもHamilton流の積分としては表せないことはよく知られています.

シンプレクティック微分同相の作る群の研究は,シンプレクティック幾何学の研究において一貫して中心的な位置を占めてきました.たとえば,シンプレクティック微分同相全体の群が,微分同相写像全体の中で$C^0$位相に関し閉であるというEliashbergの定理は,シンプレクティックトポロジーという分野が成立することを意味する定理といえます.

フラックス予想とは上記定理と同程度に基本的な予想であり,`シンプレクティック微分同相全体の群の中で,Hamilton流の積分として表されるもののなす部分群は閉である' という主張です.代数幾何における安定性の問題の微分幾何的無限次元版に相当します.小野氏は,$C^1$位相に対してこの予想が成立することを証明しました.

シンプレクティック多様体は局所的には同型であり,その意味でシンプレクティック幾何学は微分トポロジーと平行した性格をもちます.一方,Gromovによって1980年代に高次元球体に体積が同じ連続無限個の異なるシンプレクティック構造が入ることが示され,その意味でRiemann幾何と平行した性格ももちます.このGromovの議論において概正則曲線の概念が初めて導入されました.それ以来,柔性と剛性を同時に合わせもつことがシンプレクティック幾何特有の現象として認識されてきました.

小野氏は,Hamilton流とシンプレクティック流との相違,剛性を担う概正則曲線の性質など,シンプレクティック幾何特有の現象を理解すべく,予てから深く研究を進めてきました.既にLê Hông Vân 氏との共同研究が1990年代にあります.そこでは周期Hamilton系のFloerホモロジーと,1次閉微分形式を用いたその変形(Novikovホモロジー)との関係が考察されています.フラックス予想の解決は,この考察の深化の結実といえます.小野氏の議論のキーポイントは,第一に,フラックス予想が,Novikovホモロジーを得る変形操作の考察と直接結びつくこと,第二に,その変形によってホモロジーが真に変わることにあります.これによりそれまで様々な人々によって特殊な場合にのみ証明されていた同予想の完全な解決に至ったといえます.

なお,小野氏は,コンパクト実4次元シンプレクティック多様体の孤立特異点についての太田啓史氏との共同研究,Lagrange部分多様体のFloerホモロジーの一般論を作る深谷賢治,Oh, 太田氏との共同プロジェクトも遂行しています.これらの研究の裾野は,既に幅広い影響を与えるものとなっていますが,それらの諸研究における小野氏の真骨頂は,研究をつなぐ `シンプレクティック幾何学とはそもそも何か' という深い問いかけにあると思われます.

小野氏は,シンプレクティック幾何学における基本的な未解決問題を証明したのみならず,シンプレクティック多様体の性質に深く根ざした現象とFloerホモロジーとをつなぐ幾何学的理解に新たな視点を切り開きました.

以上のような小野薫氏のシンプレクティック幾何学に対する大きな貢献は,2005年度日本数学会賞秋季賞に誠に相応しいものであります.

日本数学会
理事長 小島 定吉


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最終更新日: Nov 11, 2016