2013年度日本数学会賞春季賞
浅岡正幸(京都大学大学院理学研究科)
双曲力学系および関連する幾何学の研究

数学のみならず理学・工学などの様々な分野で,常微分方程式や写像の反復合成として現れる力学系は, 決定論的法則に従って時間発展するシステムを数学的に定式化したものであり,典型的には$\mathbf{R}$ または $\mathbf{Z}$ の多様体への可微分な作用として定義される.力学系の双曲性は,力学系が定義 されている多様体の接束が,軌道の補空間方向に,時間発展とともに拡大する部分束と,縮小する部分束 に分解されることを意味し,力学系の構造安定性に密接に関係する基本的な概念である.例えば定負曲率 多様体上の測地流は,双曲力学系の最も重要な例の1つであり,多様体全体で上の意味での双曲性が成り 立つ Anosov 流と呼ばれ るクラスに属する.

力学系の研究は,Smale とその後継者たちによる双曲力学系理論の確立と,それを用いた $C^1$ 構造安定性 予想の解決を足場として,1980年代後半から様々な方向に発展している.その主要な方向の1つに,双曲力学系 理論のアイディアや手法を用いた幾何学への展開があるが,浅岡氏はそのような研究の流れの中でも特に, 射影的Anosov力学系の研究と Lie群の作用の幾何学の研究において,顕著な成果を挙げている.

90年代半ばに,3次元Anosov流の一般化である射影的Anosov流と呼ばれる系が,3次元多様体の幾何学の観点 から,三松佳彦と Eliashberg--Thurston によって独立に導入され,主に幾何学者によって活発に研究されて きた.射影的Anosov流とは,多様体上の流れであって,接束が流れに関して不変で,しかも力学系理論における 双曲分解の拡張概念である dominated な分解を持つものをいう.射影的Anosov流は,力学系理論と接触構造の 幾何学の双方にルーツを持ち,それらが交錯するところにある興味深い研究対象であり,また浅岡氏のその後の 研究の基礎となるいくつかの仕事がこれを対象としてなされている.

3次元の正則な$C^2$-Anosov流は E. Ghys によって1993年に完全に分類されているが,浅岡氏は$C^2$-射影的 Anosov 流の分類問題に取り組み,坪井--野田による先行結果を大きく改良して,任意の3次元閉多様体上の正則 な$C^2$-射影的Anosov流はAnosov流であり,従って Ghys の分類が適用されるか,または野田によるトーラス モデルの有限和として表されることを示して,この分類問題に終止符を打った.射影的Anosov微分同相写像に ついても,2次元の場合に不変量を構成した研究などの興味深い研究がある.

浅岡氏はまた,Lie 群の作用の幾何学についての研究でも優れた仕事をしている.1990年代前半に Katok と Spatzier は,高階半単純Lie群の既約一様格子による商の上の自然な ${\mathbf{R}}^n$-作用のパラメータ剛性を, 軌道葉層のコホモロジーの計算によって証明し,その後,多くの ${\mathbf{R}}^n$-作用に応用されて大きな成功を 収めた.一方,それに先立つ 1985 年に,Ghys は2次元非可換 Lie 群の3次元多様体への局所自由作用で体積を 保つものは等質的なものしかないという強い剛性定理を証明し,この定理の体積保存の条件を除いても剛性定理 が成り立つかという問題が,その後30年以上未解決のままであった.実際,2003年に松元--三松により葉層の 第1コホモロジーが計算されたが,この問題の解決には不十分であった.

そのような状況の中で浅岡氏は,2次元非可換 Lie 群の3次元多様体への(体積保存とは限らない)局所自明な 作用を完全に分類することに成功し,その帰結として,松元--三松の結果から予想される分だけの次元の変形の 存在,特にこれまで一切知られていなかった非等質的作用の存在を明らかにした.これらの非等質的作用は, Anosov流の双曲性に基づいたエルゴード理論的方法である‘力学系の熱力学形式’を用いて構成されるが,その ような方法が群作用の変形問題に適用されたのはこの論文が初めてである.浅岡氏は2008年の論文でも同じ手法 を用いて,余次元1のAnosov 流は自然な仮定のもとですべて体積保存なものと等価になることを証明している.

浅岡氏はこの他にも,ある可解群の $n$-次元球面上の自然な共形作用の変形に関する結果や,3次元多様体上の 共通部分が自明な平面場の3ツ組の可積分性,$SO$($n$,1)の放物型部分群の等質的作用の局所剛性,1次元格子系 の平衡点の増大度の研究など,独自の視点からの興味深い研究を活発に行っている.

このような浅岡氏の力学系理論から幾何学にまたがる分野の多彩で重要な研究業績は,日本数学会賞春季賞に誠に 相応しいものである.

日本数学会
理事長 宮岡 洋一


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最終更新日: Jun 20, 2013